山陰鉄道唱歌の歌詞を、わかりやすく解説してゆきます!
倉吉の地理・歴史などを、初心者の方にもやさしく解説してゆきます!
↓まずは原文から!
倉吉町は工業地
飛白に名ある織物や
生糸の産も數多し
さらに読みやすく!
倉吉町は 工業地
飛白に名ある 織物や
生糸の産も 数多し
さあ、歌ってみよう!
♪くらよしまちはー こうぎょうち
♪かすりになーある おりものやー
♪きいとのさんもー かずおおしー
鳥取駅→湖山駅→宝木駅→浜村駅→青谷駅→泊駅→松崎駅→倉吉駅→由良駅→八橋駅→赤碕駅→御来屋駅→名和駅→大山駅→淀江駅→伯耆大山駅→米子駅
※鉄道唱歌に関連する主要駅のみ表記
倉吉駅(倉吉市)に到着
松崎駅(鳥取県東伯郡湯梨浜町)を出ると、やがて
- 倉吉駅(鳥取県倉吉市)
に到着します。

倉吉駅(鳥取県倉吉市)

倉吉駅(鳥取県倉吉市)
山陰の重要都市・倉吉
鳥取県倉吉市は、鳥取と米子の間にある山陰地方の中でも重要な街になります。
倉吉駅は、特急「スーパーおき」「スーパーまつかぜ」も止まります。
前者は、鳥取を出るとはるか西・益田から新山口へ至ります。
後者は、益田が終点であるケースが多いです。
また、倉吉市は(恐らくですが)太平洋戦争中に空襲の被害を受けなかったため、江戸時代からの歴史的な街並みも残っています。
天神川の河口の平野に位置する、倉吉の街
また、歌詞冒頭にあるように、倉吉市は天神川の河口にひろがる平野にある街でもあります。

天神川(北側)(山陰本線の車窓より)(鳥取県)
かつて、伯耆国の国府が存在した都市
倉吉は、伯耆国の国府があった場所でした。
国府とは、その国の政治の中心となる場所であり、現代でいう「県庁」に該当します。
「絣(かすり)」で栄えてきた倉吉
倉吉は、歌詞にもあるように「倉吉絣」という、絣の伝統的工芸品が知られます。
「絣」とは?
絣とは、簡単にいえば昔の和服・着物のことです。
いわゆる「織物」の一種です。
「紺がすり(紺絣)」といった昔の服もあります。
また歌詞によれば、倉吉は生糸の産物も多かったことがわかります。
生糸は、絣の原料となる糸のことをいいます。
伝統工芸品の衰退と、維持のための取り組み
こうした絣などの織物は、熟練した職人の手によって大きな手間暇をかけて造ります。
そのため、素人がすぐに出来るような代物ではありません。
明治時代は大いに栄えてきた倉吉絣ですが、その難しさゆえ、機械化に対応できず、大正時代には衰退してゆきました。
また、大正以降は「産業革命」がおこり、洋服類は機械で大量生産できるようになり、価格が下がり、大衆にも浸透していくようになりました。
こうした伝統文化は、当時としては無用のものとなっても、今となっては貴重なため、地元の人々によって維持され守られる傾向にあります。
また、全国的な少子高齢化の中で、後継者の確保も重要であり、そのためには伝統技術を途絶えさせることのないよう、後世に伝承していく必要もあります。
倉吉市は、房総半島・千葉県館山市とも関係・交流がある
倉吉市は、はるか遠く・千葉県・房総半島の南にある、館山を支配してきた里見氏が、江戸時代のはじめに政権争いに敗れ、はるばるとやってきた場所でもあります。
千葉県南部を治めていた、里見氏
里見氏は、戦国時代に千葉県館山市を中心に栄えてきた一族なります。
里見氏は戦国時代、館山を中心に房総半島の大部分を支配するほど栄華を誇っていたわけです。
政治トラブルにより、倉吉へ改易
しかし、江戸時代のはじめに幕府との間で様々なトラブルに巻き込まれ、(特に悪いわけでもないのに)倉吉への改易(→左遷にも近い人事異動のこと)が決まったのでした。
そして、約3ヶ月をかけてはるばると千葉・館山から倉吉までやってきたそうです。
そして縁もゆかりもない倉吉の地で、失意のうちに亡くなったといいます。この無念さは、まるで九州・太宰府に左遷された菅原道真のようですね。
館山市との間で、交流事業が行われている
しかし現代では、この里見氏の縁がきっかけで、倉吉市と千葉県館山市との間で、交流行事が行われています。
千葉県館山市と里見氏の歴史については、以下の記事でわかりやすく解説しているため、ご覧ください。


倉吉駅に停車中の、キハ121系気動車(鳥取県倉吉市
倉吉駅を出ると、天神川を渡り、米子方面へ

天神川(南側)(山陰本線の車窓より)(鳥取県倉吉市)
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